10月9日に大峰山に登ってから、その夜は道の駅・黒滝の四畳半ほどのバス待合室で寝た。東吉野といわれるこの地方も過疎化に追い討ちをかけた自家用車の普及でバス路線は次々と廃止になった。バス会社の路線バスは最寄の下市口駅から主要経路の拠点を繋ぐだけで、その先の村々へは自治体が運行するデマンドバスがカバーする。私が泊まった立派なバス停も、路線バスとデマンドバスとを乗り継ぐ客の為に作られている。
久しぶりにサッシの引き戸がキッチリと外気の冷たさを防いでくれる建物に寝られることになった。そして、ベンチを集めてベッドを作りシュラフに入って寝に着いた。
真夜中を過ぎた頃、連日のテント暮らしに代わって久しぶりに建物で寝る安心感がもたらしてくれた気持ちの良い爆睡の中に、ふと引き戸の戸車が砂粒を噛んで軋む微かな音に意識が戻った。ガラス戸の向こうの駐車場の街灯の薄明かりを背にして、まさに待合室に入らんとする男のシルエットが浮かんでいた。
静かな夜に、沸騰した血液の激流が血管の壁や鼓膜を激しく叩く音が体内に満ち溢れた。一瞬、防御体制をとろうとした。ところが私のシュラフはファスナーが無いので咄嗟に立ち上がれない。暫く息を殺して、薄目の陰から男の一挙手一投足を見守った。
「ベンチを一つくれへんか」関西人の私の耳に聞き馴染んだ大阪弁で話し掛けてきた。どうやら第一撃で危害を加えようという訳では無いようだ。それでも、私の血管の激流はなおも激しかった。
ベンチを一つ譲ること、それをシュラフから抜け出す絶好の機会として身体の自由を獲得した。横臥のシュラフの中から低い目線で男を見上げて固まっていたが、シュラフから脱出して身体の自由と視線の同等を得たので気持ちの焦りは薄まったが血流はなおも警戒を解かなかった。
男のシルエットからは工場で被る鍔付きの作業帽に作業服の上下のようだ。薄明かりを背景にしたモノトーンの中では色は定かでないが、それらは、何故か私は白に近い淡いグレーに違いないと確信した。淡いグレーの作業服は最もありふれた、日頃最も目にする物が浮かんだに過ぎないかもしれないが、その結果を再度吟味する考えは浮かばなかった。一つでも不安の対象を解決して、少しでも落ち着きたい防衛本能がそれ以上に検討すべき課題を見付けていた。
作業帽を被った男はお椀状に形成された真っ白いマスクをしている。暗闇のモノトーンの中で極限の明るさを持つ真っ白いマスクはそれだけが影絵の中に浮かんだ。咳一つしない男が、冬でもないのに、マスクをする第一の理由が頭をかすめるとその一瞬で身体は固まった。
私の方に数歩近寄った男の距離が一層血流をかき乱した。男はベンチを一つ部屋の反対側へ引きづり、そして、私に横顔を見せて帽子を脱いだ。丸刈りというよりは暗闇の微かな光すら反射するスキンヘッドだった。そして彼が口に掛けたお椀型のマスクを両手でおもむろに持ち上げるのを緊張しなから見守った。脱ぐものと思ったマスクは彼の前頭部に固定された。スキンヘッドと椀型のマスクは役小角とか「カラス天狗」を確信させた。
今、眼前の奇異な人物は何者か。
男はベンチに横になって、真夜中に大阪から自転車で6時間もかけて走って来た理由を話始めた。私はこの様子を見て、今すぐ危害を加えられることは無いだろうと、少しは緊張のレベルを下げた。
大阪の町工場で日払いで働き、妻子は無い。酒もタバコ吸わず、幾らかの金を手にすると自転車に荷物を積んで大峰に入るのが唯一の趣味というか、生きるたった一つな目的になっている。少なくても、こんな生活を30年は続けている。それも夏冬構わずに。今回は二週間分の食料を用意して来た。そして、年に20~30回は大峰に入っていると言うのを聞いて、ふと、それでは年中、ほとんど山に住んでいるよいなものではないか、と問い掛けると、男は山に住みたいと言った。
男は、弥山川沿いの林道の奥に気に入った所があって、毎回そこへ通っているが、同じ林道で工事をする作業員が鎖ゲートを越えるのを嫌がるので、作業員が出てくる7時迄にゲートを越える必要があるので、ここを4時前には出ないといけないから、少し仮眠をとる、と左腕を枕にして私に背を向けた。
歳はどうやら60才を3つ4つ出ているようだ。私よりは若いとはいえ、男は体力の衰えを、昔は大阪から3時間で来れたのに、今は倍の6時間も掛かるようになったと表した。
しかし、最も重要なテーマ、なぜ、そこまでして大峰に通うのかを最後まで語らなかったし、私も、男と話した1時間余りの間に、その訳を聴けなかった。
そして、私はシュラフに入って、次に目が覚めたのは男が出て行くところだった。
それにしても、自転車で100名山の旅を始めて9年間に、約8~900日は寝泊まりしているが、今夜は最もスリリングで緊張させられた一夜だった。
おわり
大峰では、まだまだ不思議な体験をした。
20年前の11月下旬の奥駆道で、ミゾレが降る凍てつく夕暮れに出会った若者の話は機会が有ればお伝えしたい。、
テーマ : 自転車
ジャンル : 趣味・実用