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自転車で100名山 ことはじめ

自転車で100名山 ことはじめ  
                                大阪このはな山の会 圓尾勝彦 

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日本100名山の完登を目指す中高年者登山者は多い。高山の花や鳥の観察などのテーマを持って名山登山を続ける人もあるが、その多くは最短時間で山頂に立てる登山口へ自家用車で乗りつけ、山頂に立った自分の「証拠写真を撮ること」を最大の目的にしているように見える。

日本100名山は、北は利尻島から南の屋久島まで日本全土に分布しているので、自転車で100名山を巡ると日本全国を回ることが出来る。

折角の日本漫遊の機会を点から点へ移動する ピークハントだけでは余りにもったいない

そこで私は高校時代から50年近く続けた山歩きのフィナーレとしての100名山登山と同時に、万葉集から和歌集、そして近代詩歌へと繋がる歌枕の地を訪ねることも旅の楽しみに加えた。 

  


  
歌枕の地を訪ねて

 


沖の石:人こそ知らね乾く間もなし

 仙台市の東10km に百人一首の「我が恋は しほいに見えぬ 沖の石の 人こそしらね かはく間もなし」、

末の松山:波が越すことがないといわれた 

「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは」と読まれた歌枕の地が在る。

万葉の昔には「本の松山」、「中の松山」、「末の松山」が在ったと云われるが、今は住宅と宝国寺の墓地に挟まれて、二本の黒松の大木が「末の松山」の場所を示すだけだ。

松の根元から100m ほど、とろとろと坂を下ると直径20m余りのフェンスに囲まれ、道路より2m余り掘り下げられた池の中に一群れの形の良い庭石のように見える「沖の石」が在る。「沖の石」の際に立って眼を閉じると、たちまち周囲の住宅地は波の打ち寄せる磯辺に変わり、磯より続く「末の松山」を渡る潮風の音さえ聴こえてくる。自分の眼で現在の名所旧跡を眺めるだけではなく、先賢の目を借りれば歳月の向こうに今は幻となった旧跡も生き生きと眼前に蘇がえってくる。このような歌枕の功徳にあやかれるのも旅の楽しみである。

白河の関    羽黒山:芭蕉が滞在した別院の近く

 多くの歌人が憧れを持って訪れた白河の関や芭蕉が奥の細道の途中に逗留して俳諧を興行した羽黒山神社なども訪れた。

会津城  会津藩殉難碑  本州最北の下北駅

時代は少し下るが、奥州戦争の戦跡や柴五郎著「ある明治人の記録」を辿って会津や下北半島にも自転車を走らせた。


旅の相棒は自転車


私は「旅」と「旅行」の間には大きな隔たりがあると思っている。現在では旅は「旅行」という言葉に変わって、決められた時間に従って点から点へ移動する手段という一面だけが重宝されている。旅は「遠さを味わう」ことと言い表した哲学者があるが、奥の細道に旅立つ芭蕉が「行く春や 鳥啼魚の 目は泪」と見送りの人々と共に別れに涙したような情景は今は無い。現在の新幹線や自動車を使う旅行では「遠さ」への畏怖は失われている。

四国遍路:八十八番大窪寺

 しかし四国遍路を歩くと、室戸岬に立って足摺岬へと伸びる長大な海岸線を見た時には自分の一歩の小さとの対比から「遠さ」への恐怖すら覚える。現在人も自分の足で歩く限り、昔の旅人と同じ旅感覚を共有することができる。私は「旅」は、非日常に身を置いて「漂う」ことと思っている。私は一週間、二週間の縦走山行を「漂う」楽しさ故に「山旅」と言い表すことにしているのもまた同じ意味である。


遠野南部曲がり屋千葉家 b13遞壼・縺ク螟ゥ螢イ蝗ス驕・1_convert_20090712133949 初めて越えた1000mオーバーの峠:日勝峠

自転車の速度は時速10km程度であるが、ゆっくり走ると4km程で徒歩と同じような速度になる。これぐらいの速度では景色を楽しみながら走れるので、自転車は「旅」を味わせてくれる最高のアイテムと思っている。

 

八甲田アスピーテライン大沼

走る道が上り坂であれば肺が破れるほど必死に漕ぐし、下り坂なら薫風快走、10㎞、20kmは瞬く間である。一漕ぎ一漕ぎが苦くても快走でも、どちらにしても自転車は「旅」を満足させてくれるし、山から山へのアプローチそのものを最高のドラマに仕立ててくれる。


北海道と東北自転車の旅


  北海道を自転車で走るのは爽快だ。宗谷岬に着いたのは9月中旬だった。本州ではまだ真夏日が続く頃だろうに、ここでは既に秋風が吹いていた。

宗谷岬 

 

ヒグマのフン:山ブドウの皮と種子が多い 

しかしヒグマには要注意である。トムラウシ山に登った後、富良野に向かう県道に牛糞かと見間違う程の大きなフンが落ちていた。それには妙に紫色の種子が多く混ざっている。この話をキャンプ場の従業員にすると「自転車では逃げ切れないから、早朝や日暮れ後は走らないで」と軽く言われるほどヒグマはちょっとした幹線道路にも出るし、

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町中のゲートボール場にも「ヒグマ注意」の看板が貼ってある。ヒグマと遭遇した時に自動車と違って自転車では逃げ込めないので入念な聞き込みが必要だ。
 

日勝峠 北海道代表する雄大な狩勝峠

北海道を旅するチャリダー(自転車乗り)は峠の大きさを嘆く者が多い。しかし、峠が大きいということは勾配が緩いということもできる。それに比べると東北の峠道は尋常な坂ではない。特に月山々麓の旧国道112や米沢から西吾妻山に登る白布峠越えの県道はきつかった。

 さて、今年の中部山岳の登山ツーリングにはどんな急坂が待っているのだろうか。自転車乗りの間で「一番しんどい登り」といわれるのは富士山クライムだ。富士山スカイラインの新五合目は標高2392m、富士川河口の太平洋から正真正銘の日本一の標高差のクライムになる。
                                                    おわり


この記事は「登山時報」2006年10月号に掲載されたものを加筆訂正したものです。

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2006年 越後の旅

自転車で日本100名山 その2
 

大阪・この花山の会 圓尾勝彦



十代から楽しんできた山歩きも50年が過ぎて、山の修学旅行”を考える歳になった。

 

そこで、10年計画で日本100名山を自転車でめぐる旅を思い立ち、2004年の北海道を皮切りに年々南下を続け2008年で中部地方に達した。1年間に10座に登ることが目標だが、この5年間で60座に登れたのでほぼ予定通りといえる。。

中部~北海道登山地図 

今回は2006年9月から10月に掛けて、那須岳から尾瀬、越後三山、浅間山など11座に登った山旅と、数箇所の史跡を訪ねたツーリングを報告。




枝折峠を目指して 

梅雨が明けると好天が続くようになって登山の絶好期になるが、自転車旅行にとっては必ずしもベストシーズンとはいえない。

真夏の自転車旅行は灼熱との戦いになるので、2時に起きて早朝4時から走り始めるが朝日を受けた瞬間に全身から汗が噴き出る。ガソリンスタンドでもらって水を頭から被っても30分も走ると乾いてしまい、体温の上昇から疲労が激しく1日に70~80kmを走るのが精一杯である。

例えば、大阪―東京間の700kmは涼しい晩秋なら6~7日間で走れるが真夏には10日も掛かる。このような状況から、気温に関しては9月中旬から11月上旬がツーリングの好期だが、一方では秋雨前線に執拗に纏わり付かれることになる。

 

2006年の旅も、熱暑のピークが過ぎ秋雨前線が北上した間隙を突いて9月1日に大阪を出発し、東京でタイヤの交換と整備に2日間を費やし、9月12日に東京を出発した。72kmを走って茨城県古河市の公園にテントを張ったが、夜中から降り出した雨は夜が明けても、昼を過ぎても降り続き、今回も自転車旅行の宿命といえる雨宿りの連泊から旅は始まった。

重装備の自転車で雨の中を走るとブレーキの効きが悪くて危険なので、3日間でも4日間でも雨宿りをする。この年の旅行でも全48日の内の12日は雨宿り、24日は自転車で走り、山登は12日だけだった。この効率の悪さが自転車旅行の弱点だが、年寄りは無理をしなさんな、と神さんのアドバイスだと受け取っている。

那須高原   那須温泉神社 那須茶臼岳  那須殺生石 

那須山に登った後は那須野を北上して白河市の阿武隈川にテントを張った。

塔のへつり  

白河から北西に26kmの真名子峠(中央分水嶺)を越えると奥会津だが、

桧枝岐  

会津駒ケ岳登山口の桧枝岐村までは幾つも峠があるので2日間を要した。

自転車旅行で最も難しいことは風呂に入ることである

自動車やバイク人は5km や10kmも離れた温泉まで足を伸ばすが、自転車ツーリストにとっては1時間も走って温泉に行くなど考えられない。せっかく汗を流しても元の木阿弥でテント場に帰った時は汗まみれになっている。それに温泉に入ると気分と身体が緩んでしまって全く自転車を漕げなくなる ので、テントを張る予定場所のすぐ近くにないと入湯はできない。

 

 会津駒小屋 会津駒山頂

往復6時間半の会津駒ケ岳登山を終えて桧枝岐村に下ると日帰り温泉の駒の湯があるが、温泉に入らず食料だけを買い足して尾瀬の北玄関・御池に向かった。御池までの平均斜度は7.7%もあって、暗闇の中でクマに脅えながら必死に漕いだ。もしも桧枝岐で温泉に入っていたら急坂の途中で討死していただろう。
 

 

尾瀬原  燧ヶ岳  尾瀬至仏山

尾瀬では2泊して燧ヶ岳と至仏山に登り、

 

平が岳卵石  平が岳山頂部

平が岳を下ってから

枝折峠 

三日目に着いた枝折峠は果てし無く続く奥只見の山々を見渡せる、いかにも山深く、よくぞここまで辿り着いた、と感激を味わえる峠である。標高は1035mで豪雪と風害の為に峠に大木は無く荒涼としている。



大きな地図で見る

 

ここは国道352号の枝折峠であるが、 

会津駒枝折 

この趣のある名前は越後駒ケ岳登山道に30分程入った旧道の峠に祀られた枝折大明神に由来する。

越後駒  越後駒山頂

翌朝は快晴に恵まれて越後駒ケ岳山頂に立つことができた。



史跡ツーリング  

引き続いて旧蹟巡りのツーリングを楽しんだ。

鼠ヶ関  鼠ヶ関の松(鼠が松)

新潟と山形の県境の鼠ヶ関は「鼠ヶ関をこゆれば越後の地にあゆみを改めて・・・」と奥の細道にあるように羽前国と越後国の国境である。

奈良朝の関所は奥州三関に数えられ、急な山が海に迫り国境を守るに適した要所に在ったが、今は国境から1kmほど北に行った港の脇に江戸時代の関所が復元されている。



 

佐渡汽船 

続いて、佐渡島に

佐渡黒木御所  

順徳上皇の黒木御所跡と

 


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佐渡真野火葬墓

真野に在る火葬塚を訪ねた。

「ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほ余りある 昔なりけり」  は勢力を増す鎌倉幕府との確執が高まる中、天皇家の隆盛だった時代を想って順徳天皇19歳の御製歌である。承久の乱で父帝後鳥羽上皇と共に倒幕に立ったが破れ、佐渡島に配流されて在島22年、食を断って45歳で崩御された。歌を良くされた順徳上皇を慰める為に御所跡に歌を供える者も数多く、

鉄幹碑  

その中に「今こそ 歌の帝のいきどほり 佐渡の島根の波と荒るるか」と与謝野鉄幹の歌もあった。
 

 

出雲崎  

新潟市に戻ってから海岸沿いを南下して、芭蕉が銀河の序を著した出雲崎に向かった。佐渡に遠流にされた多くの歴史上の人物、なかでも順徳上皇の身の上を想って詠んだのが「荒海や佐渡によこたふ天の川」である。この句は単なる情景描写では無く、失望の内に島で亡くなった貴人の頭上に、せめて銀河の輝きを供養にしたかったのだろうと私は思った。私も芭蕉にならい上皇を想いながら、佐渡島に懸かる天の川を待ったが、時刻と共に雲は厚さを増して月さえも隠してしまった。



日本海沿いの出雲崎を離れて東に山を越えて、北越戦争の史跡を訪ねて長岡市に向かった。

長岡の街角にある米百俵の記念碑 

長岡は、小泉純一郎元首相が国会で米百俵の精神」を取り上げらたので知られたが、私にとっては「河合継之助」によるところが大きく、 司馬遼太郎著「峠」の土地である。

JR長岡駅 

長岡城は数度の争奪戦の舞台になって、今はその面影の片鱗も無く、JR長岡駅に変わっている。

激戦地の一つ八丁沖  

長岡の北の郊外に八丁沖を訪ねた。北越戦争の激戦地の一つである。内陸の長岡に八丁の字は似つかわしくないが、当時は長岡城の北方一帯は信濃川が造った氾濫原だったと言えばの字の意味も理解できる。

河合継之助の墓所 

河合継之助の墓所にもお参りした。一国の宰相の墓とは思えない質素なものだった。敗戦後に置かれた立場の難しさがこの様な墓を作らせたのだろう。



志賀高原を越えて

  

巻機山 

旅の後半は、巻機山から苗場山、志賀高原を越える山旅である。
天気予報ではこれから数日間は秋雨前線の影響で雨続きになるようだ。先ずは雨停滞を覚悟して、停滞の食料と巻機山に登る食料を買い込んでスーパーマーケットを出てくると雨は既に降り始めていた。これから先に数日間の雨停滞を過ごすとなると、雨を防げる屋根と水道とトイレの三点セットは是非とも欲しいところである。三点セットの揃った公園を探しながら巻機山に向ったが、無い時には無いもので、町角に小公園はあるが三要素の一つとて無くて、とてもテントでの停滞は無理だった。
雨は降るは、日暮れは迫るは、いよいよ困りはてた時に巻機山麓の蟹沢集落の神社の広場の街灯が暖かく輝いていた。雨宿りが出来る屋根は無いが水道と街灯がありがたいので、このお宮さんの広場で雨宿りをさせてもらうことにした。先ずはご近所に挨拶に伺うのが旅人のルールと言うものだ。
結局、この集落には4日間のお世話になった。ご近所のお宅からカレーライスや果物などの差し入れを頂いた。
しかし、雨宿りの庇も無くて、一人用テントの中だけでの生活、座って半畳、寝て一畳に耐え天候の回復を待った。今までで一番しんどい雨停滞だった。ここは「忍耐力」というよりは「鈍感力」の
お陰で快晴の巻機山に登れた。 


苗場山  

続いて苗場山麓の小赤沢から一車線の国道を突き進むと橋の手前でその道も終わる。

 

雑魚川林道  

この先は奥志賀まで続く雑魚川林道である。初めの5kmほどで全高低差の殆どを登ってしまうので、初めさえ頑張れば後は気持ちよく走れる。


志賀高原  

奥志賀から熊ノ湯に来ると、いよいよ自転車での体力勝負が始まる。スキーでは熊の湯から横手山・渋峠まではリフトを3本乗り継ぐが、最初の1本は極めて緩い勾配である。

志賀高原のぞき  

その先入観から気楽に登り始めると、8%の登り勾配が延々と続く。8%といえば国道では追い越し車線が設けられる勾配で、自転車で登るには限界に近い。

 

志賀高原渋峠  

それでも7.7km、高低差450mをちょうど2時間で登り切った。
 

 

志賀高原国道最高点 

国道の最高点、標高2172mの地点は渋峠から草津側に700m行ったところに在る。私にとっても自転車での最高到達点である。

ここまで登れる体力が有るということは、自転車乗りの間で“一番しんどい登り”といわれる富士山新五合目へのチャレンジも夢で無いかも知れない。太平洋の海抜0mから正真正銘の高度差2376mの一気登りとはどのようなものか是非挑戦したい。

 

小諸懐古園  小諸虚子庵  

小諸で文学探訪を楽しんでから、

 

浅間車坂峠  浅間黒班山から  浅間山頂の日の出 

浅間山の車坂峠まで標高差1300mを登ったのを良い思い出にして旅は無事に終わった。

 このレポートが皆さんのお目に付く頃には、自転車用ヘルメット姿で南アルプスを歩いていることでしょう。是非、何処かの頂きでお目に掛かりましょう。


おわり

本稿は日本勤労者山岳連盟機関紙「登山時報」2009年10月号掲載のレポートに加筆したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007~08年 自転車で100名山 甲信越の旅

自転車で100名山 その3


大阪・この花山の会 圓尾勝彦


「剣岳・点の記」のように日本百名山に主題を採った小説は多い。私が自転車での百名山めぐりを思い立った時、最初に浮かんだ計画は「伊豆の踊子」のトレースだった。願わくば、作品と同じ秋の天城峠を歩きたいと思った。

2007年と2008年の登山 



 


 


2007年 旅の目的地は大菩薩峠


地図やガイド本では大菩薩嶺を百名山としているが、深田久弥は大菩薩岳を日本百名山とし、大菩薩嶺とは大菩薩峠を指す名称だったと、述べている。これに触発されて漢字辞典を引くと「嶺」は「高い峠」とあった。ここでも著者の博識を知ることになったが、話題は大菩薩峠に限りたい。


私は未完の長編時代小説「大菩薩峠」を読破したことが無い。余りに大部であることと登場人物の多さと、話の筋が転々とするので私の読解力では掌握出来ない事がその理由である。片岡千恵蔵が扮する虚無僧が、佇みながら仰ぎ見る富士山が、私の大菩薩峠のイメージになっている。しかし、その情景すらも映画の中の一コマなのか、空想の産物なのかさえ定かでない。




大きな地図で見る


大菩薩峠を越える青梅街道は江戸と甲府を結ぶ主要な街道で、多摩川の支流の小菅川に沿って真直ぐに峠の東面に達している。

 

雲取山祭登山口 

一方、私が自転車で走った国道411は新青梅街道といわれ、雲取山の祭登山口を過ぎてから大菩薩峠の北側をずいぶんと大回している上に、途中で標高1472mの柳沢峠を越えるので、大菩薩峠の裂石(れっせき)登山口に達するまでには途中の丹波山村で一泊しなけ辿り着けなかった。


大菩薩林道1 大菩薩林道2 大菩薩峠の裂石登山口に自転車を置いて歩き始めると、里道はいつか林道に変わり、山道に変わる。

大菩薩ブナ林2 大菩薩ブナ林1 二抱え程のブナが混ざる深々とした林の小道を一時間ほど歩くと、

大菩薩ロッジ長兵衛前 車が行き交うロッジ長兵衛の前に出る。

ロッジの右手を入ると再び静かな遊歩道になり、

大菩薩福ちゃん小屋 ゆるやかな坂を歩いて勝緑荘に達してから、

大菩薩勝緑荘横 なお15分ほど登ると、

そこが大菩薩峠である。

大菩薩峠 

大菩薩峠の富士山

 「これ程、真近に富士を見たのは初めてだ」と確信めいた感動が湧き上がってきた。距離的には近い箱根や御殿場以上に大きく観せる大菩薩峠の富士山は秘めた黄金則を持っている。空の青よりは深く、近景の群青よりは浅く、青一色のグラデーションの中に凛と単座する富士山。これこそ私が抱き続けた大菩薩峠のイメージそのものだった。

大菩薩嶺 ついで大菩薩嶺に登った時に、軽い落胆のようなものを覚えた。コメツガに囲まれて視界が得られないからと謂うよりは、峠の晴れやかな景観に接した後では落差が大きかったのかも知れない。

続いて甲武信岳などに登り、31日間、1217㎞の旅を無事に終えた。


 

 

2008年 国境のトンネル

 


 この年の自転車旅行は盛り沢山だった。2004年の北海道旅行で唯一登る機会を失っていた幌尻岳に登り(9/6)、後方羊蹄山に再登し(9/11)、小樽から海路新潟に返して頚城山塊に入った。


黒姫は一茶の故郷 頚城の中心信濃町は一茶の故郷、俳諧寺に一茶の旧跡を訪ねた


戸隠牧場の中の登山道 高妻山山頂近くの大銅鏡 頚城山塊では戸隠から高妻山(9/17)に登り、


黒姫駅のブリッジ下で雨宿り 黒姫駅のブリッジの下でお定まりの5泊6日の雨宿りを楽しんだ。


黒姫駅の水汲み場 駅からは徒歩7分の所にスーパーマーケットが在るし、駅前には登山者が水筒に水を汲む為の水道も有るし、トイレも外から使えるなどA級とは謂えなくてもB+は十分といえる環境だった。





大きな地図で見る
 

笹ヶ峰は火打山と妙高山への登山口であると共に、雨飾山への経路でもあるので、是非とも自転車で到達しなければならない要所だった。


妙高杉の沢スキー場のを登ると足下に野尻湖が見える 大木の生えた五八木(ごやき)で休息 五八木の由来 京大山小屋横の雪山賛歌の碑 しかし、笹ヶ峰への道はスキー場の中をぐいぐいと急登している、という厳しい現実を知っているので、本当に登り切れるか心底不安だった。


ようやく登り着いた笹ヶ峰 

麓の杉野沢からの標高差640mは予想通り自転車で登るには厳しいものだったが、半日かかりでついに笹ヶ峰まで登り切った。休みながらも、一度も押さずに登れた事にある種の昂りを覚えると共に、今後の旅を支える大きな力を与えてくれた。

 

火打岳と妙高山への登山口 燧ヶ岳山頂 大倉乗越からの妙高山 笹ヶ峰に自転車を置いて、火打山と妙高山を泊り歩い下山すると、寒冷前線の通過待ちで三日間の雨宿りになった。

笹ヶ峰バス待合所で3泊4日の雨宿り 待合の広い回廊 自転車整備も余裕 多少の吹き降りでもテントは濡れない 筆者 バス

待合所は大きな庇と清潔なトイレと手近な水道とが揃った理想郷で、その上、次々と人がやって来て話し掛けるので退屈の暇が無いなど、この旅で一番楽しい雨宿りだった。


氷雨でも出発するツアー登山者 可哀そう 氷雨が上がるのを待って雨飾山へ抜ける乙見山トンネルに向う。

初冠雪の高妻山 寒冷前線の置き土産の初冠雪が包んだ高妻山を左手に見ながら林道ツーリングを楽しんでいた。全面に砂利が浮いたダートで、突然、大転倒。背中からもろに地面に叩き付けられた。過去最大の大転倒にしばし呆然自失、倒れたまま見上げた頭上の崖に真赤なモミジが燃えていた。

大転倒にもめげず到達した妙見山トンネル ヘルメットのお陰で怪我も無く二時間半のダート走行を終えて乙見山トンネルに到着した。

 


トンネルの額縁を通して見る景色 私の最も好きなもの 

自転車旅行のジャンルにパスハンターがある。山の向こうの景色に憧れて峠を求めて旅をするのだ。通過する最高点が峠越えでも、トンネルでも、胸躍る瞬間に賭けるのであるが、私はトンネルの額縁を通して見える景色がたまらなく好きだ。越後から信濃に抜けたトンネルの西口には、期待に違わない冠雪を輝かせた雪倉、朝日、犬ヶ岳が待っていた。



 

伊豆の踊子

 

伊豆半島を下田まで貫く天城街道は修善寺、湯ヶ島などの温泉町をたどりながら峠に近づく。川端康成もこの秋見惚れながら歩いたと思うとススキさえも親しく思えた。

  



水生地下の分岐 湯ヶ島から8㎞で旧国道が左に分れる水生地下(すいせいちした)である。

思いの外に明るかった杉林の道 

作品の冒頭に記されたつづら折りの道が始まる。頭上の杉林が秋の陽を遮る薄暗い道を数度小さく曲がって文学碑を過ぎると、やがて赤松が混ざった思いの外に明るい道に変わる。木漏れ日が浮き立たせた石垣の岩垂苔が私の目を引いた。年ごとに緑色のキルトで石垣を包んで、過ぎた時間の長さを厚みに変えて見せてくれているようだ。


800mほど行って小さな橋を渡ると、その脇に水生地の小広場が有る。作品にいう「峠の北口の茶屋」が在った所で、如何にも水が生まれる所を思わせる豊かな流れが広場の裏を走っている。今夜の炊事と明日の天城縦走に備えて水を汲む。

 


天城縦走路を歩く 

踊り子も通った旧天城トンネル 

 


トンネルの右手の杉林を数回切返して登ると縦走路の天城峠である。

昭和5年、時の天皇が八丁池まで歩かれた「上り御幸道」で、

天城縦走路崩壊箇所 

 

歩道の崩壊個所はガイドロープでコースを尾根に誘導するなど良く手入れされている。ルート上で唯一出会った流れはワサビ田の囲いの中に厳重に取り込まれて一滴の水も得られないが、秋枯れの景色の中で、そこだけが緑濃いワサビ田を見渡す斜面で一休みする。


休憩の適地八丁池 八丁池の草原と休憩舎 さらに灌木の道を一時間で八丁池に着く。広く明るい草原と東屋が在って休憩の適地である。

小さな峠の一つ:戸塚峠 この後は小さな登り下りを繰り返すが、その下った所には木々に埋もれた臼田峠、戸塚峠、片瀬峠などの小さな峠が在る。

天城の最高峰万二郎の山頂 最高峰の万三郎も灌木に囲まれて視界は無い。


ゴルフ場からの道と合流すると山頂は近い 万三郎岳へは高原ゴルフ場から四時間で周回できる道が多用されるが、天城縦走路は見逃すには余りに惜しい道である。

視界は無いが天城山脈の明るい道 

広葉樹に包まれて展望は得られないがスズ竹の下生えと疎ら過ぎず密生し過ぎない木々は、往復7時間の遠さを感じさせない一人静かな小路だった。

薄暮にはランタン型の電燈に灯が入る 夜には古風な白熱電灯がトンネルの石積みの壁を照らすが、日中は消される。暗闇中を南伊豆への出口の明りだけを頼りにコトコトと走ると、前を歩く踊子一行を追抜きそうな感覚に陥る。

トンネルから急坂を湯ヶ野に下ると、街道は下田へ向かって小さな峠を越える。


下田奉行所跡 ビバークしたペリー提督が初上陸した記念公園 下田ではペリー提督が初上陸した記念公園でビバークした。船で東京に帰る主人公に踊子が別れの手を振った乗船場は、この辺りだろうと思いながら波音に眠りを任せた。

全旅行日程56日中の19日が辛抱の雨宿りだったが、登山した16座では快晴5座、晴8座、曇または霧3座で雨天は0。その好天率は80%だった。林道での大転倒にも関わらす、2131㎞の旅が無事だったことが最大の喜びである。

 旅と登山の詳報はブログ「自転車で100名山」をご覧ください。

 

 

 

 



 

 

 

 

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Author:自転車で100名山
10年計画で自転車だけで100名山を完登した記録。登山旅は旅程そのものがドラマだ! 定年からの100名山は自転車の旅で楽しもう! 
トムラウシへの道には車輪よりも大きなフキが群れている。

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